るりの創作部屋

創作のための格納庫

星月夜 4話

3話の続き

andfour.hatenablog.com

 

 

「うーん、やっぱり軽い解離があるかもしれませんね」

坂内美佳の3度目のカウンセリングでのことだった。

「自我の分離がより重度だと解離性人格障害になります。普通の人はバラバラの自我を持ちません。焦ってしまうと記憶が飛びやすいのはトラウマによる軽い解離が起きているのかもしれません」

「自我療法、受けてみますか?」

 

「うまくいかなくてイライラする時や頭が痛い時に現れてくる自我が誰なのか、聞いてみましょう」

 

目を閉じて、イメージに現れた階段を降り、さらに進んで家の中を探索していく。明るいリビングが目の前に広がる。知らない家なのにどこか懐かしい光景だ。誰もいない広いリビングの隅には積木やレールのおもちゃが散らばっていた。キッチンは綺麗に整えられているが、誰かの生活の痕跡があちこちに染み付いており、その息遣いまで聞こえてきそうだ。

「部屋に誰かいませんか?」

「何も現れてきませんが、家の中に誰かがたくさんいる気配はします」

それが解離の証拠ですよ、と美佳が言う。

 

2階に向かうと子供の勉強部屋があった。

実家にいた頃、駄々を捏ねながら床に転がっていても、執拗に親が追ってきて勉強を強要されていた。いつも先に感情を逆撫でするのは母親の方で、子供が泣いても怒ってもその手を緩められることはなかった。金と名声と勉強にしか興味のない高慢な母親だったが、実際の彼女の自信はその態度とは裏腹に、砂上の城のようなものだった。母親の脆い自信と根底の不安は想像の範疇を超えており、家族を攻撃することで偽りの脆い自信をわずかに延命させていた。そのため、家族に対する理不尽な言動は明らかに病的なものだった。母親は自分で気付いていないが、他人を罵倒することが目的にすり替わっている。母親は満足するところがなく、怒りの引き金は彼女の気分によってコロコロ変わる。

 

母親にヒステリックな罵声を浴びせられ続けた記憶がまだ鮮明にそこにある。罵声のバリエーションは数えきれない。人格否定も日常的なことだった。苦行は声が枯れるまで何時間も続き、時間帯を問わず突撃されることだってある。

「なんでこんな簡単な問題が何度やっても解けないんだ!お前はいつもできないやつだな、違う、こうだろうが!!」

「うるさい!あっちへ行け!いつまでも横に立つな!気持ち悪いんだよ!」

当時、香凜には自分の頭や感情が壊れるような恐怖が常にそこにあった。母親に壊される恐怖と常にギリギリで闘っていた。

 

この空想に現れた子供部屋に意識を集中させようとすると頭痛がひどくなる。集中が続かず、何度もイメージが途切れる。

 

1階に戻ると7歳頃の幼い自分がいた。縁側に座り日を浴びて穏やかに過ごしている。

「あ、じゃあ他の場所にも行ってみて。誰かいませんか?」

いつも冷静に話す美佳の声が少し焦っている。美佳はもうこの先を確信しているようだ。

 

その家の玄関に行くともう1人、7歳の自分が先ほどと瓜二つの姿でそこにいる。この子は母に何かを怒られた直後のようだ。理不尽な扱いに対して自分の怒りを抑えられずパニックに陥り、床にひっくり返って泣いて暴れている。

この2人はかつては1つの姿だった。トラウマによって、悲しい記憶を持つ感情が分離したのだ。

そして今でもイライラした時に起こる頭痛は、明らかに泣いて暴れる7歳の自分が持つ頭痛と同種であることを香凜は悟る。

感情や記憶が時に曖昧で思い出せないのも、自分でコントロールできない感情が時に顔を出すのも、深いトラウマが癒えていないために起こることだった。

 

単に置かれた状況だけで人の心の傷の大小は他人と比較できない。それぞれがただ自分の傷を理解し、対処を見つけ、少しずつ自分を大切に育てられるようになればそれでいい。

 

他にも何人かの自我を見つけたが、幼児同然の弱い自我や、中年オヤジのように自分を厳しく律するタイプの自我が目立った。

彼らも元々1つだったものが分離したのだろう。一見離れて見える両極の性質の彼らも、情報を整理していくと案外ただの裏返しで、元々は1つの存在でバランスを保てるものとしか思えなかった。彼らも生き抜くために感情を分離させる方策をとったのだろう。

幼いままの自我は怒りを持たないようで、その年齢で時間が止まってしまっている。自分を律する厳しい自我はどんどん膨れ上がっていったが、厳しすぎるあまり自分が苦しくなっている。

 

香凜はそれまで、自分の感情や記憶が時々曖昧であることも知らなかった。親の虐待は子供の脳機能を徹底的に破壊する。

頭が痛くなるほどのつらい記憶はなかなか消せず、似たような場面でフラッシュバックを起こしていた。

 

香凜には特にコントロールしづらい厳格な自我が2人いる。

1人は中年オヤジ。初めて見かけた時はトンカツ屋の肥えた豚のイラストのような姿をしていた。築40年はとうに超えている木造アパートの2階で、桶に水を張っていろんなものを手洗いしていた。見ていて殺伐とした気持ちになる空間だった。

「金がない、金がない」

豚さんからはそんな声が聞こえてきた。

見ているこちらの胸がキュッと締められそうなほど余裕なく暮らしていた。

 

もう1人は嫉妬や不安を増幅させやすいクロちゃん。たいてい彼女は姿まで捉えられず、影しか見えなかった。

「あいつらがやったこと、絶対今でも許せない!」

彼女が未だに奥に抱えたあまりの憎しみに、他の自我達が恐怖で固まってしまったほどだった。

 

「どの自我も自分を守るために生まれています」と美佳は言うが、香凛はクロちゃんの存在意義がしばらくわからなかった。

フラッシュバックの元である嫉妬や昔の失敗に付随する記憶なんかない方がいい。

それに母親の嫌な部分をクロちゃんはかなり受け継いでしまっている。

クロちゃんとの向き合い方を習得するまでに何か月も時間を費やした。

 

「いい子のフリなんかやめろよ!あいつらのこと、今でも恨んでるんだ」

クロちゃんの怒りを抑え込んで笑顔でやり過ごしていたら後から調子を崩すことが何度もあった。クロちゃんの警告は時に香凛の我慢の限度を知る指標となる。

「少しの違和感でも信じた方がいいですよ。特にクロちゃんが警告している時は、クロちゃんと話し合ってみてください」

 

クロちゃんには感情が分離する前は対称の存在であった明るい女子高生がいる。女子高生とクロちゃん、中年オヤジの豚さん達と話し合って物事に対処する。力関係のバランスの大小もあり、うまくいかない時もあるが、失敗から学んでいくことも多かった。中年オヤジは当初より幾ばくか可愛くなった姿で登場するようになった。

 

香凛の内面世界は、どんどん変わっていった。