るりの創作部屋

創作のための格納庫

星月夜 3話

2話の続き

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昼12時。多くのリハビリ療法士たちが患者さんへのリハビリを終え、休憩に入る。12時になってすぐに午前のカルテを書く人もいるので、人の動きはバラついている。

香凜はリハビリ室を一直線に横切り、その一角にある控え室に入る。控え室にはロッカー数台と細長いデスク、書類の棚がある。デスクには4種24個入りの菓子折りが置かれていた。患者さんからの贈り物だろう。鮮やかで美味しそうなパッケージが目を引く。デスクの周りには4人の療法士がゆったりと座り、お菓子を囲んで団欒をしている。

「えー、何だろう?」
ミルフィーユだって。今取ったのはピスタチオだね」

贈り物のお菓子はなんといっても食感や味が楽しみだ。最初の一枚の感想を聞いて、続く人が少し考える。お菓子の前でしばし選ぶ指が彷徨う人もいれば、すぐに決められる人もいる。香凜はオーソドックスなチョコを選んだ。最初の一口を食べると、薄いパイ生地が何層にも重なっていて、食感は軽く、薄くかけられたチョコとの調和がとても良い。口の中で噛んでいる間も本当に幸せだ。

 

10年目のベテラン療法士である杉山直人が香凜に声をかけてくる。

「松田さん、一緒に担当してた熊谷正雄さん覚えてる?熊谷さんの弁護士さんからもらったよ。もう一年経ったのかー。正雄さんは元気だって。歩きも良くなってるみたいだよ」

熊谷正雄は香凜が昨年担当していた患者だ。香凜は作業療法士、杉山は理学療法士として熊谷正雄のリハビリを担当していた。

杉山のように10年もの経歴を持つ療法士は他にも何名かいるが、杉山はかなりの情報通であるため、まるで裏番長のような存在感があった。

 

熊谷正雄が退院した施設スタッフに、杉山の知り合いがいるらしい。杉山は正雄の写真も何枚か見せてくれた。

退院時より心なしか顔が多少ふくよかになっている気がする。急激に体重が増えている様子ではないので、体重管理には問題なさそうだ。肌の血色は明らかに良くなった。施設の生活にも慣れたのだろう、少しずんぐりした体格に似合わずニコニコと朗らかな笑みを浮かべている。

 

「熊谷さんの息子さん、市民病院に入院してるんだって」
「えっ」

せっかく親御さんの件はひと段落ついたのにね。杉山の声はもう香凜に届いていなかった。香凜の体は固まってしまった。ここと違って市民病院は大きな病院だ。それなりの治療が必要なのかもしれない。心がずんと重くなり、視界は分厚いフィルターを通したような感覚だ。不安でとにかく胸がざわついた。

香凜は元担当患者である熊谷正雄の息子、熊谷雄大と少しだけ縁があった。2人は毒親持ちという点で共通していた。香凜からすると、雄大毒親育ちの先輩のような存在だ。

香凜は仕事上、直接患者や関係者に電話をかけることは許されていない。だが、入院の噂を聞いた以上、少しだけでも相手の詳しい状態を知りたくなった。怪我なのか病気なのか、状態の重さや改善の見込みはどうなのか。

 

香凜が連絡を取れる人で雄大のことを知っているのは、鹿野クリニックの心理カウンセラーである坂内美佳しかいない。ちょうど週末に美佳のカウンセリングの予約をしていた。

正雄が入院していた頃、ふと雄大に尋ねたことがあった。親のことをどのように克服していったらいいのかと。

「熊谷さんの両親との向き合い方自体、見ていて参考になります。私はそこまでまだ割り切れていないので…」

香凜は実際にはそれだけしか言っていないのだが、同じ毒親育ちとして言いたいことはだいたい察したのであろう。

そこで雄大から教えてもらったのが美佳のブログサイトだった。

トラウマの治療は評判の良いちゃんとした心理士を選んだ方がいい。僕が知ってる中で、トラウマ治療はこの人が一番だ。まあでも、人のおすすめであっても一度自分の目で確かめてみることも大事だよ」

 

美佳が所属する鹿野クリニック自体は東京にあるが、最近は電話でのカウンセリングも行っているらしい。認知行動療法はなんとなく心理学の本でも読んでいたのでイメージがついていたが、それ以外にも知らない治療法をたくさん行っていることがわかった。

読み進めていくうちに、香凜は美佳のカウンセリングを受ける必要性をひしひしと感じていった。認知の歪みも根深いが、トラウマとして残っている傷もまだまだ適切な治療が必要な段階なのだろう。美佳のカウンセリングを受け始めて8ヶ月が経ったが、内面世界の発見は未だに尽きなかった。

美佳とのカウンセリングはいつも興味深く、引き込まれる。時々、治療をしてくれる美佳にはどんな内面世界があるのか気になった。

 

雄大が入院したという噂を聞いてから数日後、美佳のカウンセリングを受ける機会に雄大の状態を尋ねてみた。美佳も知らなかったようだが、美佳から雄大に連絡を取ってくれることになった。

雄大が入院したという噂を聞いてから数日後、美佳のカウンセリングを受ける機会に雄大の状態を尋ねてみたが、美佳も入院の件について全く知らなかったようだった。

香凛と雄大の了承のもと、その数日後に香凛のスマホ雄大から直接電話がかかってきた。

 

「松田先生、お久しぶり!いろいろバタバタしていたから、そちらの先生方には退院してからきちんと報告しようと思ってたけど、話が回るのが早かったんだね?」

うちの弁護士先生には、病院の先生方に心配させないよう言っておいたんだけどなー?

雄大の喋り方は以前と同じ調子で、どことなく抜けている。

「ガンが発覚して、手術のために入院することになったんだ。手術が終わってからもしばらくは大人しく過ごすつもり。僕自身は元気だよ。まあ、ガンってよっぽど進行しないと自覚症状がないもんね」

手術が必要な段階のガンなのに、淡々と状態を話せるメンタルの強さに香凛は驚いた。相手を心配させないためにこうして自分の口から伝えてくれたのだろう。

「この機会に、やりたかったこともやってるよ。何十年ぶりに世に出す作品でも作っちゃおうかな、とかね」

 

香凛は後遺症で体が元に戻らない人をたくさん見てきた。大きな病気になったらオシマイだから、迷ったらなるべく後悔しないように物事に取り組んだ方がいいという考えを持っていた。

病気になっても、大きく生き方を変えなければいけないわけではない。何かを残したり、大切な活動を続けていける。今後も長い人生をすでに諦めてしまっていたのは香凛の方だった。

 

続き

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