るりの創作部屋

創作のための格納庫

星月夜 5話

4話の続き

andfour.hatenablog.com

 

 

「香凜、あなたはあんな子に近づいてはダメよ」
「どうして?」
小学校から帰ってきた香凛は母親と話をしようと、いつもリビングに駆け込んでくる。学校で起こったことを聞いてほしい香凜は楽しそうになんでも報告する。
母親はそんな香凛の話が聞くに堪えないほど退屈だという態度を隠さない。

「ママ、どうしたの?」と香凛に気にかけてほしいのだろう。一生懸命話す香凛に中途半端な相槌ばかり返してくる。
子供である香凛よりもさらに子供じみた母親だった。

面白くないという表情をしながら、母親はなぜか香凜の同級生にケチをつけてくる。
団地の子だから。貧乏なのよ」

 

またある時は香凜がアイスをたびたびねだる様子を見て、「私なんて」と突然癇癪を起した。
「私が小さい頃はこんなアイスすら買ってもらえなかった」
「あんたは贅沢すぎるのよ!」
香凜の母親は実家が貧乏で辛かったとしばしば香凜に泣きついていた。
両手で顔を覆って大げさに泣きわめく母親を、香凛自身も戸惑いながらなだめ続けた。唐突に親をなだめることになってしまった香凛も泣いていた。香凛が優しく精一杯母親の頭を撫でながら言う。
「ママ、ごめんなさい。ママを悲しませて本当にごめんなさい。ママ、大丈夫だから」

 

かつて、母親は感情が昂ると説教の途中で子供を殴ったり叩いたりすることがあった。
「あんたも辛いだろうけどね、あんたを叩く私の手の方が痛いのよ」
そう言って悲痛な表情をしながらも母親が攻撃をやめることはなかった。

 


香凛は今でも時々実家にいた頃のことを思い出す。

トラウマにまつわるカウンセリング治療を定期的に受けるようになってから、母親への思いはいつまでもこびりつく憎しみや悲しみだけではなくなった。

孤独でかわいそうな部分は母親と共通していることに香凛は気付いていた。


母親は貧乏な家庭出身で、おまけにその親は重い精神疾患を抱えていた。
母親の幼少期の思い出は、香凛よりもずっと強い憎悪にまみれているのだろう。
それを差し引いても、「あんな貧乏な子に近づくな」などという言葉は、幼い頃の自分を傷つけていることにはならないのだろうか。
幼い頃の姿は母親の中で切り捨てられてしまったのだろうか。
だとすると、幼い頃の母親はどこに行ってしまったのだろうか。

 

簡単に消えるわけがない。
香凛は自分の7歳の自我のことを思い出す。
いくら封じ込めても、無意識の中に彼女たちは存在していた。
闘いの痕跡が伺える、陰陽に分離した双子のような姿で。

 

母親が閉じ込めた幼い自我は、何重にも閉じられた門の先にいるのだろうか。
それとも地中の奥深くの洞窟に眠っているのだろうか。
香凛の想像を絶するほどのストレスにさらされた母親の場合、幼い頃の自我はさらに強く分離しているだろう。

母親が蓋をした自我ほど、治療中に自分と向かい合う時に簡単には出てこないだろう。
だが、厳重に檻に入れられた幼い自我は事あるごとに、パニックを起こしながら飛び出してくる。
「助けて!助けて!」

パニックの最中、自分が何をしているのか母親は客観的に認識できていないのかもしれない。

 

だが、おそらく母親は仮に香凛と同じカウンセリングを受けたとしても、治療の一部分も理解できないだろう。

自分を客観的に見つめ直すことが全くできないからだ。

周りの環境が良くなかったとしっかり認識し、「変わりたい」という思いがないと治療の意味がない。
幼い記憶に、認めたくないほどの負の感情が強すぎたのかもしれない。
彼女はずっと自分の内面の迷宮から抜け出せない。
這い上がろうと努力した香凛からすると、それはとてもかわいそうなことに思える。
不安や空虚は、どれだけ縋っても他人が埋めてくれるものではない。
無償の愛をくれる身近な存在は一般的に母親だが、母親にその期待ができない場合、自分で答えを探すしかない。
代わりの他人が思い描いた通りに尽くしてくれないことを憎んでも、状況はひどくなるばかりだ。
治らない母親の精神的な病に呆れて、娘である香凛でさえ距離を取った。

 

自分の中にいつの間にか植え付けられた深い嫉妬や不安、悲しみ、等身大の自分を認めないといつまでも同じものに縛られる。

 

「あんたを叩く私の手の方が痛いのよ」
確かに母親は、鬼のように怒り狂う自我が檻からたびたび飛び出してきて、コントロールができずに苦しかったのかもしれない。
母親の中で、想像を絶するほど激しく深く怒り、悲しみの感情を持っている存在はどんな形をしているのだろう。