星月夜 2話
第1話の続き
家族と離れて暮らすことで、記憶と感情が少しずつ整理され、香凜は少しずつ自分を理解していった。気持ちに納得がいくと悪夢は一つずつ減っていったが、懸念ごとがあるとまた別の形で夢に家族が現れた。時折、もう受けることのない学校の授業や試験の夢を見ることもある。当然、その出来栄えに目を光らせているのは母親だ。
毒親から物理的に離れてからも多くの人が苦しむのは、自分を無意識に責めてしまう感覚がなかなか抜けないからだ。家族の元にいた時はそうしなければ生きられなかった。
松田香凛も典型的に、「自分が頭が悪いのが悪い。一度で覚えられないのが悪い」と母親に刷り込まれてきた人間だ。幼い頃から刷り込まれ続けて、物理的に親から離れた今でも、亡霊のように親の価値観がこびりついている。冷静な自分は、それが親の価値観であることや、それが間違っていることも分かっている。だが、物心がつく前から刷り込まれた価値観は簡単には取り除けない。その苦しみがますます母親への憎悪を募らせていく。
大人になってからも、当然のように仲の良い家族のエピソードを聞くたびに、香凛は胸が張り裂けそうになった。香凛がどれだけ渇望しても得られないものを、当たり前に、のびのび享受している人達が山ほどいる。家とのあまりの違いに愕然とする。
「お母さんの誕生日だから昨日はケーキ買ってきた。プレゼントにはこれを買うんだ」
正月、盆、誕生日などの各種行事、旅行、買い物、趣味。時に母娘の関係は友達関係と違わないケースもあって混乱する。幸福な人々と世間話一つするのにも神経を使うのだ。香凜はあまり詮索をされない時は自分からあえて家族の話をしなかった。家族のことを聞かれたときも、その場で適当に見繕った嘘の話をする。この話が一刻も早く終わることを願いながら。家族の外の世界に出ても周囲とも一定の距離を置いて接している香凜は、本当の心の拠り所がないように時々感じていた。
香凜の家族も表面的には幸福な家庭を取り繕うことができる。だが、にっこり笑いながらも家族の誰もが内側にはち切れんばかりの不満を抱えている。目の奥が怒っており表情も不自然だ。
円満な家庭で過ごせず、人間関係をうまく築く術がわからなかった香凜は、学校にもあまりいい思い出がなかった。昔の記憶には悲しいものが多い。
香凜は戻ることのできない過去の記憶を少し書き換えていた。
仲間に馴染めず存分には楽しめなかった林間学校の記憶。今やインターネットには林間学校での催しや遊びのスケジュール例なども閲覧できる。
香凜は空想の中でその場面を存分に楽しむ。物語の主役になることだってできる。学校行事は青春時代の特別なもので、あの空間であの級友たちと、一度きりしか行けないものだと思っていたけど、大人になっても何度でも当時に帰れるじゃないか。当時の級友たちや、あるいは好きな友達と、思いきりレクリエーションしたり、風景を楽しんだりする想像を少ししただけで、香凜はかなり満たされていた。気分が乗ってきたら、好きなところに旅行する計画を立てたっていい。大人の私は、どこにでも自由に行けるし、どれだけ楽しんでもいい。じっとりとこびり付いた嫌な思い出、嫉妬や後悔を香凜はこうして少しずつ手放していった。
青春時代の傷を少し埋めてからは、クラスメイトとの人間関係に悩む夢は一切なくなった。
夢というのは「将来の夢」だけを指すものではない。子供同然の空想だって、いくつになっても楽しんだっていい。夢を見ることが慰めや癒しに繋がることもある。時には現実を見ずに空想世界に籠ることを「幼稚だ、逃げだ」と非難してくる人もいる。「殻を破れ、現実に出ろ」と投げかけてくるアニメまで時々見かける。教訓としては何も間違っていないのだが、まるで地面から突然底なしの穴に突き落とされるような、途方に暮れた気持ちになる。呆然とする人々を放置してそれっきり。現実も大切だけど、少し強引で不親切だなと思う。せっかくの人間の空想力なのだから、自分のために活かす使い方をした方が時に豊かに生きられるのではないか。
「先生、ごめんね。今日はあまり膝の調子が良くないみたい」
「そんな日もありますよね。ちょっと揉みますね。休憩したらまた歩きましょうか」
松田香凜は回復期リハビリ病院に勤める療法士だ。このさくら台病院の入院患者のほとんどは高齢者である。
急病になって最初に運ばれる大病院で多くの若い人は治療が済むので、回復期リハビリには健常者の多くは当然縁がない。
リハビリの現実は厳しい。香凜ももうこの仕事をして4年目だが、どれだけ勉学をしても中には治らない人もいる。新人からは脱出したが、ベテランのようにはまだ治療の効果をあげられない。
一定の可能性はあるのに、「何をやったって良くならないよ」と自分から諦めてしまう患者も時々いる。
現実に向き合いすぎない夢って、そんなにも幼稚で悪いものなのだろうか?
「ねえ先生、また塗り絵もらってもいい?」
「もちろんです!村田さんの塗り絵本当に好きなので、どんどん描いてほしいです」
「先生ほんとに私の塗り絵のファンだよね。ただの暇つぶしだけど、それだけ喜んでもらうと嬉しいよ」
「入院生活は時間が余りますよね。村田さんの塗り絵に感化されて、私も最近休みの日に絵を描いてるんです」
香凜はそう言いながら村田さん用のクリアファイルに、新しい絵柄の塗り絵を追加する。
村田さんの塗り絵は全てペンで描かれている。村田さんの右手は、握力も感覚も手の筋力も健康な高齢者より弱い。最初はペンで線を引くのもやっとだったが、コツコツ練習するうちに、少しずつだが上達していった。
何よりも目を見張るのが、村田さんの独特な色遣いだった。香凜は村田さんの絵の、どこかパワフルなところが気に入っていた。
「そういえば子供の頃、絵を描くことが私の支えだったな。久しぶりに描いてみようかな」
インターネットから離れて時間を持て余すようになった香凜は、何年も描いていなかった絵に取り組み始めた。
香凜は時々、子供のような夢を見る。子供の香凜には目に映る全てのものが実際より大きくてワクワクするものだった。曲がりくねった滑り台、とんでもない広さのプール、どこまでも横をついてくる動物。店先にプリンアラモードの食品サンプルが陳列するレトロなカフェ。夢の中で、香凜は何事も恐れず、子供のように空間を楽しみ、遊び倒す。
こんな楽しい夢ばかりならいいのにな。そう思いながらワクワクする楽しい光景の絵を描いた。
辛いことがあった日に絵が描きたくなった時は、灯台の絵を何枚も描いた。香凜は本で見かけて、気に入ったフレーズがあったのだ。
どんなに辛くても、一度見つけた光は灯台のように存在する。どんな遠回りをしても、絶対に見失わない。
絵本のようなファンタジーな雰囲気で、時には自分に味方してくれるかわいい動物やキャラクター、夜空に数個浮かぶ印象的な星も散りばめて。地面にオレンジや黄色系統の明るい道を敷いたり、街のパン屋が営業していたりする。
全く違う風景が描きたい時は別のテーマを描くこともある。やはり灯台を置き換えた光の象徴を描いておく。森の中に突如現れた、天使が舞い降りそうな泉の側に腰掛けて、水を飲みに来る動物を待っていたって楽しい。自分を癒すものをたくさん持っておけば、きっと大丈夫だ。
描きたくても何も描けない日もある。あるいは疲れて描きかけで寝てしまうこともある。子供の頃、香凜は絵をそうやって楽しんでいた。香凜はかつてのように絵と向き合い始めた。
親を取り替えられないことは、毒親持ちの不幸だ。毒親育ちというだけでマイナスの枷をたくさんつけられてしまう。親の考え方を刷り込まれたせいで、親から離れても苦労する羽目になる。
そんな私たちが、その流れに従わず、少しでも何かを慈しみ、何かを楽しむことができてきているとすれば、それはとんでもなく立派なことなのだ。
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