るりの創作部屋

創作のための格納庫

星月夜 5話

4話の続き

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「香凜、あなたはあんな子に近づいてはダメよ」
「どうして?」
小学校から帰ってきた香凛は母親と話をしようと、いつもリビングに駆け込んでくる。学校で起こったことを聞いてほしい香凜は楽しそうになんでも報告する。
母親はそんな香凛の話が聞くに堪えないほど退屈だという態度を隠さない。

「ママ、どうしたの?」と香凛に気にかけてほしいのだろう。一生懸命話す香凛に中途半端な相槌ばかり返してくる。
子供である香凛よりもさらに子供じみた母親だった。

面白くないという表情をしながら、母親はなぜか香凜の同級生にケチをつけてくる。
団地の子だから。貧乏なのよ」

 

またある時は香凜がアイスをたびたびねだる様子を見て、「私なんて」と突然癇癪を起した。
「私が小さい頃はこんなアイスすら買ってもらえなかった」
「あんたは贅沢すぎるのよ!」
香凜の母親は実家が貧乏で辛かったとしばしば香凜に泣きついていた。
両手で顔を覆って大げさに泣きわめく母親を、香凛自身も戸惑いながらなだめ続けた。唐突に親をなだめることになってしまった香凛も泣いていた。香凛が優しく精一杯母親の頭を撫でながら言う。
「ママ、ごめんなさい。ママを悲しませて本当にごめんなさい。ママ、大丈夫だから」

 

かつて、母親は感情が昂ると説教の途中で子供を殴ったり叩いたりすることがあった。
「あんたも辛いだろうけどね、あんたを叩く私の手の方が痛いのよ」
そう言って悲痛な表情をしながらも母親が攻撃をやめることはなかった。

 


香凛は今でも時々実家にいた頃のことを思い出す。

トラウマにまつわるカウンセリング治療を定期的に受けるようになってから、母親への思いはいつまでもこびりつく憎しみや悲しみだけではなくなった。

孤独でかわいそうな部分は母親と共通していることに香凛は気付いていた。


母親は貧乏な家庭出身で、おまけにその親は重い精神疾患を抱えていた。
母親の幼少期の思い出は、香凛よりもずっと強い憎悪にまみれているのだろう。
それを差し引いても、「あんな貧乏な子に近づくな」などという言葉は、幼い頃の自分を傷つけていることにはならないのだろうか。
幼い頃の姿は母親の中で切り捨てられてしまったのだろうか。
だとすると、幼い頃の母親はどこに行ってしまったのだろうか。

 

簡単に消えるわけがない。
香凛は自分の7歳の自我のことを思い出す。
いくら封じ込めても、無意識の中に彼女たちは存在していた。
闘いの痕跡が伺える、陰陽に分離した双子のような姿で。

 

母親が閉じ込めた幼い自我は、何重にも閉じられた門の先にいるのだろうか。
それとも地中の奥深くの洞窟に眠っているのだろうか。
香凛の想像を絶するほどのストレスにさらされた母親の場合、幼い頃の自我はさらに強く分離しているだろう。

母親が蓋をした自我ほど、治療中に自分と向かい合う時に簡単には出てこないだろう。
だが、厳重に檻に入れられた幼い自我は事あるごとに、パニックを起こしながら飛び出してくる。
「助けて!助けて!」

パニックの最中、自分が何をしているのか母親は客観的に認識できていないのかもしれない。

 

だが、おそらく母親は仮に香凛と同じカウンセリングを受けたとしても、治療の一部分も理解できないだろう。

自分を客観的に見つめ直すことが全くできないからだ。

周りの環境が良くなかったとしっかり認識し、「変わりたい」という思いがないと治療の意味がない。
幼い記憶に、認めたくないほどの負の感情が強すぎたのかもしれない。
彼女はずっと自分の内面の迷宮から抜け出せない。
這い上がろうと努力した香凛からすると、それはとてもかわいそうなことに思える。
不安や空虚は、どれだけ縋っても他人が埋めてくれるものではない。
無償の愛をくれる身近な存在は一般的に母親だが、母親にその期待ができない場合、自分で答えを探すしかない。
代わりの他人が思い描いた通りに尽くしてくれないことを憎んでも、状況はひどくなるばかりだ。
治らない母親の精神的な病に呆れて、娘である香凛でさえ距離を取った。

 

自分の中にいつの間にか植え付けられた深い嫉妬や不安、悲しみ、等身大の自分を認めないといつまでも同じものに縛られる。

 

「あんたを叩く私の手の方が痛いのよ」
確かに母親は、鬼のように怒り狂う自我が檻からたびたび飛び出してきて、コントロールができずに苦しかったのかもしれない。
母親の中で、想像を絶するほど激しく深く怒り、悲しみの感情を持っている存在はどんな形をしているのだろう。

 

 

 

 

星月夜 4話

3話の続き

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「うーん、やっぱり軽い解離があるかもしれませんね」

坂内美佳の3度目のカウンセリングでのことだった。

「自我の分離がより重度だと解離性人格障害になります。普通の人はバラバラの自我を持ちません。焦ってしまうと記憶が飛びやすいのはトラウマによる軽い解離が起きているのかもしれません」

「自我療法、受けてみますか?」

 

「うまくいかなくてイライラする時や頭が痛い時に現れてくる自我が誰なのか、聞いてみましょう」

 

目を閉じて、イメージに現れた階段を降り、さらに進んで家の中を探索していく。明るいリビングが目の前に広がる。知らない家なのにどこか懐かしい光景だ。誰もいない広いリビングの隅には積木やレールのおもちゃが散らばっていた。キッチンは綺麗に整えられているが、誰かの生活の痕跡があちこちに染み付いており、その息遣いまで聞こえてきそうだ。

「部屋に誰かいませんか?」

「何も現れてきませんが、家の中に誰かがたくさんいる気配はします」

それが解離の証拠ですよ、と美佳が言う。

 

2階に向かうと子供の勉強部屋があった。

実家にいた頃、駄々を捏ねながら床に転がっていても、執拗に親が追ってきて勉強を強要されていた。いつも先に感情を逆撫でするのは母親の方で、子供が泣いても怒ってもその手を緩められることはなかった。金と名声と勉強にしか興味のない高慢な母親だったが、実際の彼女の自信はその態度とは裏腹に、砂上の城のようなものだった。母親の脆い自信と根底の不安は想像の範疇を超えており、家族を攻撃することで偽りの脆い自信をわずかに延命させていた。そのため、家族に対する理不尽な言動は明らかに病的なものだった。母親は自分で気付いていないが、他人を罵倒することが目的にすり替わっている。母親は満足するところがなく、怒りの引き金は彼女の気分によってコロコロ変わる。

 

母親にヒステリックな罵声を浴びせられ続けた記憶がまだ鮮明にそこにある。罵声のバリエーションは数えきれない。人格否定も日常的なことだった。苦行は声が枯れるまで何時間も続き、時間帯を問わず突撃されることだってある。

「なんでこんな簡単な問題が何度やっても解けないんだ!お前はいつもできないやつだな、違う、こうだろうが!!」

「うるさい!あっちへ行け!いつまでも横に立つな!気持ち悪いんだよ!」

当時、香凜には自分の頭や感情が壊れるような恐怖が常にそこにあった。母親に壊される恐怖と常にギリギリで闘っていた。

 

この空想に現れた子供部屋に意識を集中させようとすると頭痛がひどくなる。集中が続かず、何度もイメージが途切れる。

 

1階に戻ると7歳頃の幼い自分がいた。縁側に座り日を浴びて穏やかに過ごしている。

「あ、じゃあ他の場所にも行ってみて。誰かいませんか?」

いつも冷静に話す美佳の声が少し焦っている。美佳はもうこの先を確信しているようだ。

 

その家の玄関に行くともう1人、7歳の自分が先ほどと瓜二つの姿でそこにいる。この子は母に何かを怒られた直後のようだ。理不尽な扱いに対して自分の怒りを抑えられずパニックに陥り、床にひっくり返って泣いて暴れている。

この2人はかつては1つの姿だった。トラウマによって、悲しい記憶を持つ感情が分離したのだ。

そして今でもイライラした時に起こる頭痛は、明らかに泣いて暴れる7歳の自分が持つ頭痛と同種であることを香凜は悟る。

感情や記憶が時に曖昧で思い出せないのも、自分でコントロールできない感情が時に顔を出すのも、深いトラウマが癒えていないために起こることだった。

 

単に置かれた状況だけで人の心の傷の大小は他人と比較できない。それぞれがただ自分の傷を理解し、対処を見つけ、少しずつ自分を大切に育てられるようになればそれでいい。

 

他にも何人かの自我を見つけたが、幼児同然の弱い自我や、中年オヤジのように自分を厳しく律するタイプの自我が目立った。

彼らも元々1つだったものが分離したのだろう。一見離れて見える両極の性質の彼らも、情報を整理していくと案外ただの裏返しで、元々は1つの存在でバランスを保てるものとしか思えなかった。彼らも生き抜くために感情を分離させる方策をとったのだろう。

幼いままの自我は怒りを持たないようで、その年齢で時間が止まってしまっている。自分を律する厳しい自我はどんどん膨れ上がっていったが、厳しすぎるあまり自分が苦しくなっている。

 

香凜はそれまで、自分の感情や記憶が時々曖昧であることも知らなかった。親の虐待は子供の脳機能を徹底的に破壊する。

頭が痛くなるほどのつらい記憶はなかなか消せず、似たような場面でフラッシュバックを起こしていた。

 

香凜には特にコントロールしづらい厳格な自我が2人いる。

1人は中年オヤジ。初めて見かけた時はトンカツ屋の肥えた豚のイラストのような姿をしていた。築40年はとうに超えている木造アパートの2階で、桶に水を張っていろんなものを手洗いしていた。見ていて殺伐とした気持ちになる空間だった。

「金がない、金がない」

豚さんからはそんな声が聞こえてきた。

見ているこちらの胸がキュッと締められそうなほど余裕なく暮らしていた。

 

もう1人は嫉妬や不安を増幅させやすいクロちゃん。たいてい彼女は姿まで捉えられず、影しか見えなかった。

「あいつらがやったこと、絶対今でも許せない!」

彼女が未だに奥に抱えたあまりの憎しみに、他の自我達が恐怖で固まってしまったほどだった。

 

「どの自我も自分を守るために生まれています」と美佳は言うが、香凛はクロちゃんの存在意義がしばらくわからなかった。

フラッシュバックの元である嫉妬や昔の失敗に付随する記憶なんかない方がいい。

それに母親の嫌な部分をクロちゃんはかなり受け継いでしまっている。

クロちゃんとの向き合い方を習得するまでに何か月も時間を費やした。

 

「いい子のフリなんかやめろよ!あいつらのこと、今でも恨んでるんだ」

クロちゃんの怒りを抑え込んで笑顔でやり過ごしていたら後から調子を崩すことが何度もあった。クロちゃんの警告は時に香凛の我慢の限度を知る指標となる。

「少しの違和感でも信じた方がいいですよ。特にクロちゃんが警告している時は、クロちゃんと話し合ってみてください」

 

クロちゃんには感情が分離する前は対称の存在であった明るい女子高生がいる。女子高生とクロちゃん、中年オヤジの豚さん達と話し合って物事に対処する。力関係のバランスの大小もあり、うまくいかない時もあるが、失敗から学んでいくことも多かった。中年オヤジは当初より幾ばくか可愛くなった姿で登場するようになった。

 

香凛の内面世界は、どんどん変わっていった。

 

 

 

星月夜 3話

2話の続き

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昼12時。多くのリハビリ療法士たちが患者さんへのリハビリを終え、休憩に入る。12時になってすぐに午前のカルテを書く人もいるので、人の動きはバラついている。

香凜はリハビリ室を一直線に横切り、その一角にある控え室に入る。控え室にはロッカー数台と細長いデスク、書類の棚がある。デスクには4種24個入りの菓子折りが置かれていた。患者さんからの贈り物だろう。鮮やかで美味しそうなパッケージが目を引く。デスクの周りには4人の療法士がゆったりと座り、お菓子を囲んで団欒をしている。

「えー、何だろう?」
ミルフィーユだって。今取ったのはピスタチオだね」

贈り物のお菓子はなんといっても食感や味が楽しみだ。最初の一枚の感想を聞いて、続く人が少し考える。お菓子の前でしばし選ぶ指が彷徨う人もいれば、すぐに決められる人もいる。香凜はオーソドックスなチョコを選んだ。最初の一口を食べると、薄いパイ生地が何層にも重なっていて、食感は軽く、薄くかけられたチョコとの調和がとても良い。口の中で噛んでいる間も本当に幸せだ。

 

10年目のベテラン療法士である杉山直人が香凜に声をかけてくる。

「松田さん、一緒に担当してた熊谷正雄さん覚えてる?熊谷さんの弁護士さんからもらったよ。もう一年経ったのかー。正雄さんは元気だって。歩きも良くなってるみたいだよ」

熊谷正雄は香凜が昨年担当していた患者だ。香凜は作業療法士、杉山は理学療法士として熊谷正雄のリハビリを担当していた。

杉山のように10年もの経歴を持つ療法士は他にも何名かいるが、杉山はかなりの情報通であるため、まるで裏番長のような存在感があった。

 

熊谷正雄が退院した施設スタッフに、杉山の知り合いがいるらしい。杉山は正雄の写真も何枚か見せてくれた。

退院時より心なしか顔が多少ふくよかになっている気がする。急激に体重が増えている様子ではないので、体重管理には問題なさそうだ。肌の血色は明らかに良くなった。施設の生活にも慣れたのだろう、少しずんぐりした体格に似合わずニコニコと朗らかな笑みを浮かべている。

 

「熊谷さんの息子さん、市民病院に入院してるんだって」
「えっ」

せっかく親御さんの件はひと段落ついたのにね。杉山の声はもう香凜に届いていなかった。香凜の体は固まってしまった。ここと違って市民病院は大きな病院だ。それなりの治療が必要なのかもしれない。心がずんと重くなり、視界は分厚いフィルターを通したような感覚だ。不安でとにかく胸がざわついた。

香凜は元担当患者である熊谷正雄の息子、熊谷雄大と少しだけ縁があった。2人は毒親持ちという点で共通していた。香凜からすると、雄大毒親育ちの先輩のような存在だ。

香凜は仕事上、直接患者や関係者に電話をかけることは許されていない。だが、入院の噂を聞いた以上、少しだけでも相手の詳しい状態を知りたくなった。怪我なのか病気なのか、状態の重さや改善の見込みはどうなのか。

 

香凜が連絡を取れる人で雄大のことを知っているのは、鹿野クリニックの心理カウンセラーである坂内美佳しかいない。ちょうど週末に美佳のカウンセリングの予約をしていた。

正雄が入院していた頃、ふと雄大に尋ねたことがあった。親のことをどのように克服していったらいいのかと。

「熊谷さんの両親との向き合い方自体、見ていて参考になります。私はそこまでまだ割り切れていないので…」

香凜は実際にはそれだけしか言っていないのだが、同じ毒親育ちとして言いたいことはだいたい察したのであろう。

そこで雄大から教えてもらったのが美佳のブログサイトだった。

トラウマの治療は評判の良いちゃんとした心理士を選んだ方がいい。僕が知ってる中で、トラウマ治療はこの人が一番だ。まあでも、人のおすすめであっても一度自分の目で確かめてみることも大事だよ」

 

美佳が所属する鹿野クリニック自体は東京にあるが、最近は電話でのカウンセリングも行っているらしい。認知行動療法はなんとなく心理学の本でも読んでいたのでイメージがついていたが、それ以外にも知らない治療法をたくさん行っていることがわかった。

読み進めていくうちに、香凜は美佳のカウンセリングを受ける必要性をひしひしと感じていった。認知の歪みも根深いが、トラウマとして残っている傷もまだまだ適切な治療が必要な段階なのだろう。美佳のカウンセリングを受け始めて8ヶ月が経ったが、内面世界の発見は未だに尽きなかった。

美佳とのカウンセリングはいつも興味深く、引き込まれる。時々、治療をしてくれる美佳にはどんな内面世界があるのか気になった。

 

雄大が入院したという噂を聞いてから数日後、美佳のカウンセリングを受ける機会に雄大の状態を尋ねてみた。美佳も知らなかったようだが、美佳から雄大に連絡を取ってくれることになった。

雄大が入院したという噂を聞いてから数日後、美佳のカウンセリングを受ける機会に雄大の状態を尋ねてみたが、美佳も入院の件について全く知らなかったようだった。

香凛と雄大の了承のもと、その数日後に香凛のスマホ雄大から直接電話がかかってきた。

 

「松田先生、お久しぶり!いろいろバタバタしていたから、そちらの先生方には退院してからきちんと報告しようと思ってたけど、話が回るのが早かったんだね?」

うちの弁護士先生には、病院の先生方に心配させないよう言っておいたんだけどなー?

雄大の喋り方は以前と同じ調子で、どことなく抜けている。

「ガンが発覚して、手術のために入院することになったんだ。手術が終わってからもしばらくは大人しく過ごすつもり。僕自身は元気だよ。まあ、ガンってよっぽど進行しないと自覚症状がないもんね」

手術が必要な段階のガンなのに、淡々と状態を話せるメンタルの強さに香凛は驚いた。相手を心配させないためにこうして自分の口から伝えてくれたのだろう。

「この機会に、やりたかったこともやってるよ。何十年ぶりに世に出す作品でも作っちゃおうかな、とかね」

 

香凛は後遺症で体が元に戻らない人をたくさん見てきた。大きな病気になったらオシマイだから、迷ったらなるべく後悔しないように物事に取り組んだ方がいいという考えを持っていた。

病気になっても、大きく生き方を変えなければいけないわけではない。何かを残したり、大切な活動を続けていける。今後も長い人生をすでに諦めてしまっていたのは香凛の方だった。

 

続き

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星月夜 2話

第1話の続き

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家族と離れて暮らすことで、記憶と感情が少しずつ整理され、香凜は少しずつ自分を理解していった。気持ちに納得がいくと悪夢は一つずつ減っていったが、懸念ごとがあるとまた別の形で夢に家族が現れた。時折、もう受けることのない学校の授業や試験の夢を見ることもある。当然、その出来栄えに目を光らせているのは母親だ。

毒親から物理的に離れてからも多くの人が苦しむのは、自分を無意識に責めてしまう感覚がなかなか抜けないからだ。家族の元にいた時はそうしなければ生きられなかった。

松田香凛も典型的に、「自分が頭が悪いのが悪い。一度で覚えられないのが悪い」と母親に刷り込まれてきた人間だ。幼い頃から刷り込まれ続けて、物理的に親から離れた今でも、亡霊のように親の価値観がこびりついている。冷静な自分は、それが親の価値観であることや、それが間違っていることも分かっている。だが、物心がつく前から刷り込まれた価値観は簡単には取り除けない。その苦しみがますます母親への憎悪を募らせていく。

大人になってからも、当然のように仲の良い家族のエピソードを聞くたびに、香凛は胸が張り裂けそうになった。香凛がどれだけ渇望しても得られないものを、当たり前に、のびのび享受している人達が山ほどいる。家とのあまりの違いに愕然とする。

「お母さんの誕生日だから昨日はケーキ買ってきた。プレゼントにはこれを買うんだ」

正月、盆、誕生日などの各種行事、旅行、買い物、趣味。時に母娘の関係は友達関係と違わないケースもあって混乱する。幸福な人々と世間話一つするのにも神経を使うのだ。香凜はあまり詮索をされない時は自分からあえて家族の話をしなかった。家族のことを聞かれたときも、その場で適当に見繕った嘘の話をする。この話が一刻も早く終わることを願いながら。家族の外の世界に出ても周囲とも一定の距離を置いて接している香凜は、本当の心の拠り所がないように時々感じていた。

香凜の家族も表面的には幸福な家庭を取り繕うことができる。だが、にっこり笑いながらも家族の誰もが内側にはち切れんばかりの不満を抱えている。目の奥が怒っており表情も不自然だ。

円満な家庭で過ごせず、人間関係をうまく築く術がわからなかった香凜は、学校にもあまりいい思い出がなかった。昔の記憶には悲しいものが多い。

香凜は戻ることのできない過去の記憶を少し書き換えていた。

仲間に馴染めず存分には楽しめなかった林間学校の記憶。今やインターネットには林間学校での催しや遊びのスケジュール例なども閲覧できる。

香凜は空想の中でその場面を存分に楽しむ。物語の主役になることだってできる。学校行事は青春時代の特別なもので、あの空間であの級友たちと、一度きりしか行けないものだと思っていたけど、大人になっても何度でも当時に帰れるじゃないか。当時の級友たちや、あるいは好きな友達と、思いきりレクリエーションしたり、風景を楽しんだりする想像を少ししただけで、香凜はかなり満たされていた。気分が乗ってきたら、好きなところに旅行する計画を立てたっていい。大人の私は、どこにでも自由に行けるし、どれだけ楽しんでもいい。じっとりとこびり付いた嫌な思い出、嫉妬や後悔を香凜はこうして少しずつ手放していった。

青春時代の傷を少し埋めてからは、クラスメイトとの人間関係に悩む夢は一切なくなった。

夢というのは「将来の夢」だけを指すものではない。子供同然の空想だって、いくつになっても楽しんだっていい。夢を見ることが慰めや癒しに繋がることもある。時には現実を見ずに空想世界に籠ることを「幼稚だ、逃げだ」と非難してくる人もいる。「殻を破れ、現実に出ろ」と投げかけてくるアニメまで時々見かける。教訓としては何も間違っていないのだが、まるで地面から突然底なしの穴に突き落とされるような、途方に暮れた気持ちになる。呆然とする人々を放置してそれっきり。現実も大切だけど、少し強引で不親切だなと思う。せっかくの人間の空想力なのだから、自分のために活かす使い方をした方が時に豊かに生きられるのではないか。

 

「先生、ごめんね。今日はあまり膝の調子が良くないみたい」

「そんな日もありますよね。ちょっと揉みますね。休憩したらまた歩きましょうか」

松田香凜は回復期リハビリ病院に勤める療法士だ。このさくら台病院の入院患者のほとんどは高齢者である。

急病になって最初に運ばれる大病院で多くの若い人は治療が済むので、回復期リハビリには健常者の多くは当然縁がない。

リハビリの現実は厳しい。香凜ももうこの仕事をして4年目だが、どれだけ勉学をしても中には治らない人もいる。新人からは脱出したが、ベテランのようにはまだ治療の効果をあげられない。

一定の可能性はあるのに、「何をやったって良くならないよ」と自分から諦めてしまう患者も時々いる。

現実に向き合いすぎない夢って、そんなにも幼稚で悪いものなのだろうか?

 

「ねえ先生、また塗り絵もらってもいい?」

「もちろんです!村田さんの塗り絵本当に好きなので、どんどん描いてほしいです」

「先生ほんとに私の塗り絵のファンだよね。ただの暇つぶしだけど、それだけ喜んでもらうと嬉しいよ」

「入院生活は時間が余りますよね。村田さんの塗り絵に感化されて、私も最近休みの日に絵を描いてるんです」

香凜はそう言いながら村田さん用のクリアファイルに、新しい絵柄の塗り絵を追加する。

村田さんの塗り絵は全てペンで描かれている。村田さんの右手は、握力も感覚も手の筋力も健康な高齢者より弱い。最初はペンで線を引くのもやっとだったが、コツコツ練習するうちに、少しずつだが上達していった。

何よりも目を見張るのが、村田さんの独特な色遣いだった。香凜は村田さんの絵の、どこかパワフルなところが気に入っていた。

「そういえば子供の頃、絵を描くことが私の支えだったな。久しぶりに描いてみようかな」

インターネットから離れて時間を持て余すようになった香凜は、何年も描いていなかった絵に取り組み始めた。

香凜は時々、子供のような夢を見る。子供の香凜には目に映る全てのものが実際より大きくてワクワクするものだった。曲がりくねった滑り台、とんでもない広さのプール、どこまでも横をついてくる動物。店先にプリンアラモード食品サンプルが陳列するレトロなカフェ。夢の中で、香凜は何事も恐れず、子供のように空間を楽しみ、遊び倒す。

こんな楽しい夢ばかりならいいのにな。そう思いながらワクワクする楽しい光景の絵を描いた。

辛いことがあった日に絵が描きたくなった時は、灯台の絵を何枚も描いた。香凜は本で見かけて、気に入ったフレーズがあったのだ。

どんなに辛くても、一度見つけた光は灯台のように存在する。どんな遠回りをしても、絶対に見失わない。

絵本のようなファンタジーな雰囲気で、時には自分に味方してくれるかわいい動物やキャラクター、夜空に数個浮かぶ印象的な星も散りばめて。地面にオレンジや黄色系統の明るい道を敷いたり、街のパン屋が営業していたりする。

全く違う風景が描きたい時は別のテーマを描くこともある。やはり灯台を置き換えた光の象徴を描いておく。森の中に突如現れた、天使が舞い降りそうな泉の側に腰掛けて、水を飲みに来る動物を待っていたって楽しい。自分を癒すものをたくさん持っておけば、きっと大丈夫だ。

描きたくても何も描けない日もある。あるいは疲れて描きかけで寝てしまうこともある。子供の頃、香凜は絵をそうやって楽しんでいた。香凜はかつてのように絵と向き合い始めた。

親を取り替えられないことは、毒親持ちの不幸だ。毒親育ちというだけでマイナスの枷をたくさんつけられてしまう。親の考え方を刷り込まれたせいで、親から離れても苦労する羽目になる。

そんな私たちが、その流れに従わず、少しでも何かを慈しみ、何かを楽しむことができてきているとすれば、それはとんでもなく立派なことなのだ。

 

続き

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星月夜 1話

 

松田香凜は悪夢にうなされて目を覚ました。
 
数年前から1人で暮らしているが、今でも時折母親の悪夢を見る。
「ただの夢」とは受け流せないほど、悪夢は長くて鮮明だ。
 
母親にいじめられる悪夢も不快な気分にさせられる。
だが今回の夢の中で家族をきつく詰っているのは、香凜だった。
 
「これ注文して。金はあんたが払えよ」
母親にやられたことをそのままやり返す。
 
「この嫌がらせは人生を親に潰された腹いせだ」。
腹の中でわかっていても母親への憎しみを止められない。
香凛は、自分の振る舞いが嫌で仕方なかった。
 
母親は直接手を下さず、相手の弱点を刺激して焚き付ける。
意図的に父娘を対立させて、自分は存在を消すこともよくある。
家庭内は香凛が安心できる場所ではなかった。
 
母親は憎しみに突き動かされているところがあった。
その母親と同じ弱さが香凛自身にある。
夢であっても、香凜にとって直視したくない事実だった。
 
母親は香凛を精神的に追い詰め、弱点を刺激する。
先に香凛を怒らせたはずの母親が、いつのまにか被害者面をしている。
そして爬虫類のようなぎょろっとした目をパチクリさせて訴えてくる。
 
母親は態度で「あんたの方が悪魔だ。あんたも弱い人間なのよ」と暗に訴えたいようだ。
なぜそんな行動を取るのか真意はわからない。
相手を悪者に仕立て上げたいのか、家族と共依存を続けたいのか、
それとも何も意識していないのか。
母親が他人を無意味に引き摺り下ろさなければ自分を保てないとすれば、その方が問題は深刻だ。
 
香凜が母を許せず、実家に帰らないのは、
少しでも母と関わったら自分の弱さを暴かれ、
香凜も同じ憎悪の吐き出し方しかできなくなるからだ。
解決しない憎悪に囚われている暇はない。
これは香凜から母親への精神的な決別だ。
 
「そうそう、彼らと関わってはいけない」
 
自分にそう言い聞かせるだけで体に力が戻っていく。
香凜はベッドを出て、朝の支度を始める。
 
こんな悪夢を見てしまった原因は、ツイッターで炎上している問題に熱中したせいだ。
 
議題に上がっている町なんて、香凜には縁もゆかりもない。
それなのに「今時ありえない。かわいそう」という感情に絡め取られると、
事情を深く知りたくなる。
香凛は相手が悪だと認識し、
心の中で相手を糾弾して憂さ晴らしをしてしまった。
噂話には人間の持つ闇の感情を引き出す力がある。
そして行き過ぎた勧善懲悪で相手を裁くことは、爽快感でやめられない。
SNSなんて人間の心理を操ることが巧みなただのプログラムなのに、自ら踊らされに行っているのだ。
これを「熱中」と呼ぶのなら、インターネットは恐ろしく毒性が高い。
 
母を過剰に悪だと切り捨てて責めることと、
SNSでの炎上を糾弾するのは同じ弱さだった。
 
ネットをうまく扱えないのなら、しばらく距離を置こう。
いつものルーティンをこなしながら、香凜は少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 

↓続き

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